野辺地町の歴史
常夜燈
常夜燈(町指定史跡)
文政10年(1827年)に野辺地の廻船問屋野村冶三郎によって建てられ日本 で現存する常夜燈の中では極めて古い常夜燈です。
盛岡藩の日本海航路への窓口として、賑わっていた野辺地湊へ夜間入湊する 船の目印となっていました。
西光寺のシダレザクラ
西光寺のシダレザクラ (県指定天然記念物)
西光寺本堂への参道左側にあり、樹木医によれば樹齢300年を超えており 毎春枝に美しい花をつけその風情ある姿が人々に親しまれています。
花鳥号
花鳥号銅像 (愛宕公園中腹)
明治天皇がこの地に、2回ほど巡幸されました。
最初の巡幸(明治9年)に、現在の役場地内にある行在所に到着すると同時に倒死した巡幸馬花鳥号の冥福を祈り愛宕公園中腹に銅像として建てられ、愛宕公園のシンボルと
なっております。
防雪林
日本最古の防雪林 (鉄道記念物14号指定)
日本で最初の鉄道防雪林。明治24年に全通した東北線が、野辺地付近で雪のため、たびたび不通となったため、本多静六林学博士の提案により明治26年に植林されました。
また、本多静六氏は埼玉県菖蒲町出身ということもあり、菖蒲町との交流が始まり平成9年当町が町制施工100周年を迎えた年に、記念事業に併せて、有効都市提携の協定が結ばれております。
町章
野辺地の頭文字である「の」の字を表徴するとともに、 躍進を連想させる波頭をあわせ図形化したもので、躍進、発展、団結を表現したものです。
(昭和36年11月24日制定)
町の花「はまなす」
海辺に咲く花「はまなす」は、丈は短いが強い浜風に耐える様は、横に手を伸ばし輪(和)を広げているようです。
歌人石川啄木が「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜なすよ今年も咲けるや」と詠んだように、北のまち野辺地のイメージに あいます。
町の鳥「かもめ」
日本最古の灯台といわれる常夜燈を眼下に水面を悠然と飛ぶ「かもめ」は南部藩の商港として 栄えた野辺地町にふさわしい鳥です。
「のへじ夏だよ 潮路のかもめ」と野辺地音頭にも歌われ、親しまれており夏祭りの海上渡御に 飛び交う 「かもめ」は町のみなぎる活力を感じさせます。
町の木「さくら」
町民憩いの場である愛宕公園の「さくら」は私たちをいつも心優しく見守ってくれています。
当町が分布の北限にあたる公園内の「エドヒガシ」、西光寺の「シダレザクラ」はいずれも町指定天然記念物となっており樹齢250年をかぞえ、毎年みごとな花をつけ、町のシンボルとなっています。
友好都市 埼玉県菖蒲町
友好都市提携の経緯
明治26年に、菖蒲町出身で日本初の林学博士である本多静六博士の進言によりJR東北本線・野辺地駅構内に日本初の
鉄道防雪林が誕生しました。
この防雪林の100周年記念式典が平成4年に野辺地町で開催され、菖蒲町が式典に招待されたことがきっかけとなり 両町の交流が始まりました。
その後、平成9年に野辺地町の町制施行100周年記念事業に併せて友好都市提携の協定が結ばれました。
現在では、お互いの産業祭やイベントに参加するなど、産業面での交流を図っています。
名誉町民
野村治三郎
第8代/野村治三郎(のむら じさぶろう)氏
窮民を助けることを使命とし、町の産業振興にも大いに貢献
1877年(明治10)~1949年(昭和24)
明治33年23歳の若さで8代目として家督を相続、野村家代々の「救民施与」の家訓を受継ぎ、ことあるごとに町に窮民に救援の手をさしのべ、その仁慈の徳行は数知れない。
また、野辺地町産馬組合長、農会長、蚕糸組合長、青森県農工銀行取締役、上北銀行、野村銀行頭取などの要職につき、工場誘致、養蚕の奨励、農林漁業の振興と野辺地町の産業の覚醒発展に大いに貢献した。
さらに、大正4年からは衆議院議員として政界へ進出し、4期国政へ、大正10年からは町議会議員として2期町政に参与した。
勲四等及び勲三等瑞宝章を受章。
松本彦次郎
松本彦次郎(まつもと ひこじろう)氏
国際的な視野に立ち、後進教育に生涯を捧げた偉大なる史学者
1880年(明治13)~1958年(昭和33)
明治36年第一高等学校を経て京都帝国大学法科に入学、その後東京帝国大学国史科に移り、明治41年に卒業、大正4年にはアメリカのシカゴ大学に留学、それからは慶応義塾大学を始めとして第六高等学校、東京文理科大学の教授、弘前大学、横浜国立大学の講師をつとめた。
学問上の著作は数多くあり、日本史学会を担う数多くの学者を育てた。野辺地町が生んだ他に誇りうる偉大な学者である。
昭和18年に従四位勲二等瑞宝章を受章。
鈴木逸太
鈴木逸太(すずき いった)氏
地域医療に重きを置き、青森県の保健衛生向上に大きく寄与
1882年(明治15)~1980年(昭和55)
明治42年仙台医学専門学校卒業、翌年野辺地町に診療所を開業。町の嘱託医として町民の診療にあたり、また、青森県医師会理事・顧問、上北郡医師会々長・顧問など多くの医療機関の要職につき、広く青森県の保健衛生の振興に尽くした。
特に学校医として、66年有余の長きにわたり児童生徒の衛生思想の普及、疾病の治療、保健衛生の管理向上に大きく貢献した。
昭和5年青森県知事表彰、昭和28年文化大臣賞、昭和34年藍綬褒章、昭和40年勲五等双光旭日章、昭和51年社会貢献者表彰、昭和52年青森県文化賞。
野村七録
野村七録(のむら しちろく)氏
あふれる情熱で、陸奥湾ホタテ産業の隆盛を実現した水産の父
1893年(明治26)~1973年(昭和48)
大正5年に第一高等学校を経て、東京帝京大学理学科に入学、大正9年に同大学の大学院を卒業し、第一高等学校講師を始めとして、後に東北帝国大学教授、昭和33年から昭和37年まで弘前大学学長をつとめた。
水産学の基礎研究に情熱を燃やし、海洋生物学、養殖学では日本の権威者である。
特に水産学の研究分野の中で「陸奥湾産帆立貝の増殖研究」の諸論文は、今日、陸奥湾におけるホタテ貝隆盛の基礎を築いたものであり、学問研究を現実社会の向上のため尽くしたその功績は大なるものがある。
昭和10年勲六等瑞宝章、昭和13年勲五等瑞宝章、昭和14年勲四等瑞宝章、昭和17年従四位、昭和41年勲二等旭日重光章、昭和42年青森県褒賞。
江口隆哉
江口隆哉(えぐち たかや)/本名 捨松(すてまつ)氏
旺盛な創作活動で、現代舞踊の定着と発展の礎を築いた芸術家
1900(明治33)~1977(昭和52)
町立城内小学校代用教員となるが、浪曲、狂言、義太夫、三味線、日本舞踊などに興味を持ち稽古に努め、昭和4年に高田雅夫・原せい子舞踊研究所に入所、内弟子として舞踊に専念する。
昭和6年宮操子氏と結婚し、舞踊研究のためドイツに渡り、ウィングマン舞踊学校に学び、昭和8年帰国。その後、舞踊研究所を開設し舞踊活動を続け、自主公演や合同公演等を通して旺盛な創作活動を展開するとともに、後進の指導育成にも尽力され、わが国における現代舞踊の定着と発展の基礎を築き上げ、外国のモダンダンスを日本独特の現代舞踊として芸術性を高めた。
昭和35年青森県褒賞、昭和41年紫綬褒章、昭和46年勲四等旭日小綬章、昭和52年従五位。
江口乙矢
江口乙矢 (えぐち おとや)/本名 紀世松(きせまつ)氏
兄の意志を継ぎ、現代舞踊を通じて郷土の発展に大きく貢献
1911(明治44)~2004(平成16)
兄江口隆哉・宮操子夫妻の門下生となり、厳しい修行を積みながら活発な舞踏活動を展開する。同門の研究生今村須美子氏と結婚、大阪において独立し、舞踏研究所を開設する。数多くの優れた作品を発表し激賞を浴び、さらには、現代舞踊という極めて難解な作品を日本の民話や地方の風俗などを取り入れ、簡素で判りやすい作品にして大衆的人気を得た。
また、旺盛な創作活動や後進の指導育成に尽力し、現代舞踊の定着と発展のため多大な貢献の果たした。
野辺地においては、郷土公演を上演するとともに、野辺地音頭に振り付けしその普及に努めるなど、郷土をこよなく愛した。
昭和48年青森県褒賞、昭和54年紫綬褒章、昭和60年勲四等旭日小綬章。